竹林問答塾 ミラー
スレッド:最近の学芸面令和8年7月8日
- 最近の学芸面令和8年7月8日 - 波浪規定 2026/07/10(Fri) 19:58 No.35902
- 桶狭間 - 波浪規定 2026/07/10(Fri) 20:09 No.35903
- Re: 桶狭間 - 波浪規定 2026/07/11(Sat) 11:07 No.35904
- Re^2: 桶狭間 - 波浪規定 2026/07/11(Sat) 11:26 No.35905
- Re^3: 桶狭間 - 波浪規定 2026/07/11(Sat) 11:38 No.35906
- Re^4: 桶狭間 - 波浪規定 2026/07/11(Sat) 11:50 No.35907
- Re^5: 桶狭間 - 波浪規定 2026/07/11(Sat) 12:38 No.35908
最近の学芸面令和8年7月8日 投稿者:
波浪規定 投稿日:2026/07/10(Fri) 19:58:00
No.35902
『古今をちこち』(磯田道史)
桶狭間 投稿者:
波浪規定 投稿日:2026/07/10(Fri) 20:09:00
No.35903
『桶狭間 一番の勝利者』
織田信長は桶狭間合戦で今川義元の大軍を襲い、義元の首を奪い去った。ただ肝心なのは戦後処理だ。首が本物か確認の必要がある。影武者の偽首かもしれないからだ。信長はどうしたのか。不思議なことに、歴史小説やドラマは、ここをじっかり描かない。
信長は抜かりがなかった。配下の若者どもが「二つ三つずつ首を手々に取り持って」くると、信長は「首はどれも清州(の居城)で実検!」と指示。「義元の首があるのをみて満足も格別」だった。信長は「義元の首を自身の馬先を進むものに持たせ4」、沿道の人々に見せつけ、陽のあるうちに急いで清州城に凱旋した。
Re: 桶狭間 投稿者:
波浪規定 投稿日:2026/07/11(Sat) 11:07:00
No.35904
翌日、首実検を始めると、今川勢の首は三千。しかし、信長がまず興味を示したのは首ではなく捕虜のほう。信長は義元の「同朋」を生け捕りにしていると聞き、大喜びした(『信長公記』)。同朋とは阿弥号を名乗り僧侶の風体等で大将の身の回りの世話を勤めるものだ。義元は「権阿弥」という同朋を可愛がっており、これを捕まえていた(『総見記』)。捕まった権阿弥は義元の鞭と弓を射る時の「弓掛け」という専用手袋を持っていた。この手袋は革製で使用者の手にピッタリはまる作り。他人と貸し借りできないため「かけがいのない」という表現がここから生まれた。信長が義元の胴体の手に、この専用手袋をはめて本人確認をしたかまではわからない。
Re^2: 桶狭間 投稿者:
波浪規定 投稿日:2026/07/11(Sat) 11:26:00
No.35905
信長は権阿弥を捕まえた家臣に褒美を与え(『信長公記』)、「首数を取ったより莫大に勝る」と、褒めちぎったと後世の史料は示す(『尾張志』)。信長は権阿弥がもつ情報の価値に気付いていた。権阿弥は今川譜代の家来ではない。摂津伊丹城主(兵庫県)の伊丹氏の五男(『寛政重修諸家譜』)だが戦乱のため伊丹を離れ、八歳時に実家が滅亡。今川家の同朋になり、雑用を勤めて四十歳近くになっていた(『寛永諸家系図伝』伊丹氏)。同朋は戦場での使者と弔いも仕事だ。
Re^3: 桶狭間 投稿者:
波浪規定 投稿日:2026/07/11(Sat) 11:38:00
No.35906
信長が尋問すれば権阿弥はなんでも答えた。権阿弥は「義元の前後の始末申し上げます」と、義元の桶狭間侵攻から死まで今川方の作戦の内情をしゃべり、三千の首の身元確認に協力した。「首をいちいち見て見知った者がいると、誰々と名前をいった」。それを信長は筆記させ戦果を確認した(『信長公記』)。権阿弥の情報提供のおかげで、織田方は義元を討ち取った確信でき、今川家臣の討ち死に状況も把握できた。
Re^4: 桶狭間 投稿者:
波浪規定 投稿日:2026/07/11(Sat) 11:50:00
No.35907
信長は手厚い。権阿弥に金銀で装飾された豪華な太刀・脇差を与え、十人の僧をつけ、義元の首を持たせて、駿府(静岡市)の今川家に送り返した。信長は義元の弔いを大々的にやって大勝利を演出した。東海道筋の目立つ場所に「義元塚」を築き、弔いの為に千部経を読ませ、それでも足りないと、巨大な卒塔婆を立てた(『信長公記』)。東海道を旅行するものは、いやがおうでも信長の大勝利と奥ゆかしい敵への手厚い弔いを見ることになった。
Re^5: 桶狭間 投稿者:
波浪規定 投稿日:2026/07/11(Sat) 12:38:00
No.35908
権阿弥は、義元の子・氏真にも重用された。駿河湾の海賊衆を束ね津阿弥と名乗った。氏真が没落すると、敵の武田信玄・勝頼に仕えた。武田が滅亡すると、徳川家康の御船奉行におさまった。二代将軍秀忠にも気に入られ話し相手におさまり、一字を貰い「伊丹秀虎」として七十五歳まで生きた(『大栄町史』史料編)。息子は大名になって、伊丹家は再興された。桶狭間の一番の勝利者は権阿弥だったかもしれない。
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