スレッド:最近の学芸面令和7年8月13日
最近の学芸面令和7年8月13日 投稿者:波浪規定 投稿日:2025/08/14(Thu) 19:27:00 No.5168
読売の学芸面。
『古今をちこち』(磯田道史)
飢饉 投稿者:波浪規定 投稿日:2025/08/14(Thu) 19:37:00 No.5169
> 『古今をちこち』(磯田道史)

『行き倒れ死 招いた制度』

米が高い。江戸時代には米価が高いと、死体が路上に転がった。1623年、豊臣秀吉が築き徳川家康も住んだ伏見城は廃城になり、城跡が堀内村になった。この村の庄屋は行政記録の「萬留帳」をのこしている。
米価が高騰した「天保の大飢饉」の時は、どうだったのか。近年、京都市伏見区横大路の共同墓地で餓死者の供養塔がみつかった(京都新聞2024年9月11日夕刊)。無縁墓に埋もれていたその石碑には「餓死諸霊塔」とあり「天保七(1836)年秋より同八年秋に至り、天下の飢えにかかる餓死者が枚挙にいとまなかった」と刻まれていたという。
Re: 飢饉 投稿者:波浪規定 投稿日:2025/08/14(Thu) 20:18:00 No.5170
私は京都市歴史資料館に行き、天保5年4月から11年(1834〜40年)分の「萬留帳」を解読しはじめた。行き倒れや捨て子があまりに多い。6年たらずで66人。うち救助されて生存できたのは11人。66人中48人は発見時はすでにご遺体。虫の息で発見された14人も助かったのは半分。ほかに捨てられた子が3人。結局、町はずれの堀内村だけで55人が行き倒れ死んでいた。伏見全体ではもっと多くの行き倒れ死が出ていただろう。
行き倒れに至った事情もみたい。例えば、天保8年10月3日の寒い夜、42年の母親と10歳の娘が畑で倒れていた。そばには3歳と5歳の子どもが死んでいた。母は弱っていたが、村役人が尋ねると、事情を語った。「宇治で五月まで借家住まいをしておりました。この時節柄で難渋に陥り、夫は弁次郎と申しましたが、私たち妻子を捨てて出奔してしまいました。身寄りもございません。余儀なく小児を連れ、路上にさまよう暮らしと相成りました・・・」。母はせめて幼い娘2人の「死骸を取り片づけてください」と哀願したという。
江戸期は力仕事の雇用が多い農業社会。女性だけで生きていく困難は想像する。夫に捨てられ娘3人を抱えた母親の心中を思うと胸がしめつけられる。当時は、ひとたび路上生活の身となれば、救いの手が差し伸べられにくかった。特に飢えた人は追い払われがち。町や村も費用負担を嫌がる。死ぬ直前まで手を出さず「お救い小屋」に収容してもしばしば翌日に死んだ。
不幸中の幸いか、この母娘は収容後の死亡記録がない。村人から「丸薬、給物(たべもの)等色々世話」をうけ、辛くも生き残ったらしい。
Re^2: 飢饉 投稿者:波浪規定 投稿日:2025/08/14(Thu) 20:29:00 No.5171
ひどいのは伏見奉行所だ。死体の検分に来るたび上の役人が金1分(約8万円)を村から取って小遣いにした。飢えた人が救助後に死ぬとこれが半額の金2朱になってしまう。まして救助して飢え人が死なねば役人の謝礼はゼロになる。民を救えば役人が得をする制度になっておらず、死なせれば手数料が生じるまずいシステムになっていた。救助がすすまなかった一因とも考えられる。こんな行政だ。飢饉後、江戸人は物価高の不満を外国人に向け始めた。尊王攘夷運動の熱気で幕府を倒した。今この国でも「既存の政党や政治家は、私のような人間を気にかけていない」と感じる人が増え続ける(イソプス調査)。
心して考えたい。
Re^3: 飢饉 投稿者:波浪規定 投稿日:2025/08/15(Fri) 14:29:00 No.5173
> ひどいのは伏見奉行所だ。死体の検分に来るたび上の役人が金1分(約8万円)を村から取って小遣いにした。飢えた人が救助後に死ぬとこれが半額の金2朱になってしまう。まして救助して飢え人が死なねば役人の謝礼はゼロになる。

坊主には謝礼を払ったかな。
Re: 飢饉 投稿者:波浪規定 投稿日:2025/08/15(Fri) 14:28:00 No.5172
> 米価が高騰した「天保の大飢饉」の時は、どうだったのか。近年、京都市伏見区横大路の共同墓地で餓死者の供養塔がみつかった(京都新聞2024年9月11日夕刊)。無縁墓に埋もれていたその石碑には「餓死諸霊塔」とあり「天保七(1836)年秋より同八年秋に至り、天下の飢えにかかる餓死者が枚挙にいとまなかった」と刻まれていたという。

本願寺は供養しただろうか。

- WebForum -