竹林問答塾 ミラー
スレッド:最近の学芸面令和8年5月13日
最近の学芸面令和8年5月13日 投稿者:
波浪規定 投稿日:2026/05/14(Thu) 18:41:00
No.5788
『古今をちこち』(磯田道史)
『古今をちこち』 投稿者:
波浪規定 投稿日:2026/05/14(Thu) 19:10:00
No.5789
『織田家の無力化 秀吉の苛烈』
歴史ドラマは豊臣秀吉を明るく可愛く描きすぎだ。秀吉は稀代の政治家だ。戦国時代でもある。徹頭徹尾、自分のために生きており、陰湿なやり口もある。主家の織田家が落ち目とみるやひどい目に遭わせた。織田信長が本能寺の変で消えてからその遺児、とくに織田信雄への仕打ちは公開イジメに近かった。
秀吉は外交上手だ。はじめは織田信雄を利用することを考えた。秀吉は徳川家康を傘下に入れたい。それには御しやすい信雄をまず誘い、信雄をを糸口・窓口にして家康を引き込む策をとった。それで秀吉は最初だけ信雄を異様に優遇した。
拙著『豊臣兄弟 天下をとった処世術』にも書いたが、秀吉は役者である。信雄の警戒心を解くため会うと、「膝を折って手をつき(土下座)。ことばを出さず(信雄の目をみて、ただ)涙を」流してみせた。これには周囲も驚いたらしい。竹中半兵衛の子が記しているほどだ(『豊鑑』)。秀吉は「自分の得になる涙」なら幾らでも流す。さらに秀吉は信雄を自分と同じ「権大納言」にした。官位は自分より上の「正三位」にして主人扱いにしてみせた。信雄には兄・信忠よりも高い官職を与え、秀吉は信雄を操縦しはじめた。
Re: 『古今をちこち』 投稿者:
波浪規定 投稿日:2026/05/14(Thu) 19:28:00
No.5790
ところが僅か一か月後、秀吉は信雄を官位で追い越す。内大臣ついで関白となった。信雄も内大臣にしてもらえたが、家康が秀吉傘下に入り、小田原北条氏を滅ぼすと、秀吉の信雄の扱いは一変した。天下統一が目前となり、秀吉にとって信雄の利用価値はなくなった。
秀吉は信雄の織田家を手厳しく罰し、みすぼらしい家にして天下にみせつける秘策に出た。秀吉は家康に「関東の旧北条領に移れ」と命じた。信雄には三河以東の「家康の旧領に移れ」と指示した。だが信雄は織田家代々の本拠地・尾張国から移りたくない。主家の気分が残っているものだから、秀吉に不平を言った。秀吉は「しめた」と思ったと違いない。直ちに厳命を発し、信雄の領国を取り上げ、下野の「烏山に二万石だけやる」と言った。だが、これもワナ。烏山に着くと、秀吉は「烏山はやらない。出羽秋田に遠流する。家臣の供は禁止」と言ってきた。
これで信雄に付いてきた織田家譜代の家臣が四散した。秀吉と家康は彼らを存分に採用。信長の人的遺産を分け取りにした。織田家は本能寺の変で即座に滅んだわけではない。秀吉の巧みな謀略で段階的に無力化されている。
Re^2: 『古今をちこち』 投稿者:
波浪規定 投稿日:2026/05/14(Thu) 19:43:00
No.5791
長年、私は内大臣織田信雄が秋田に流されたその地に行ってみたかった。先月、その機会に恵まれた。読売新聞東京本社特別編集委員の橋本五郎さんが故郷秋田に橋本五郎文庫という図書館を作っておられ講演を頼まれた。
橋本家は信雄のいた屋敷から二・五キロほど。実は私の曾祖父の兄の家・丹羽左平太家は信雄の児小姓であったから、秋田に流された時、「三、四人で申し合わせ所々の関所を忍び抜け、秋田」に到達して信雄の脇を離れなかった(池田家文庫「丹羽良造奉公書」)。信雄が秋田にいたのは二か月らしいが、伝承や遺品の刀や写経が残っていた。現地の人が写真をみせてくれた。信雄の娘が現地で生まれたとの伝説もあった。
さて、私の親類の丹羽も秋田に来た時は、若い盛りだった。子を遺していないとも限らない。講演で会場の人々に「私と遠い親戚かもしれませんよ」と冗談を言って帰った。
Re^2: 『古今をちこち』 投稿者:
波浪規定 投稿日:2026/05/15(Fri) 20:03:00
No.5792
信雄の領国を取り上げ、下野の「烏山に二万石だけやる」と言った。だが、これもワナ。烏山に着くと、秀吉は「烏山はやらない。出羽秋田に遠流する。家臣の供は禁止」と言ってきた。
尼崎を与えたら・・・断った?
- WebForum -